大きな津波がたくさんの人々の命を奪った東日本大震災。それは非常に痛ましい出来事で、津波に飲まれる直前の人々の動画とかを思い出す度に、絶対逃れられない圧倒的な力に飲み込まれていく気持ちを想像して尻につららを突っ込まれたような(J.P.ポルナレフ)気持ちに今でもなるのだけど、それ以外の気持ちは薄れてしまっている。

忙殺の日常の中で希薄になっていった、というよりもそもそもチリチリとするような身近な出来事ではなかったと自分自身が感じているからではないか。3.11の当日の事は今でもよく覚えている。僕は大きなセミナーを受け終わった後で、受ける前から受けた後に至るまで大きく掴んだビジネスの根っこのようなものを捕まえた気持ちで希望に満ちていたわけで、その日もその余韻というか復習のようなものを一人でしたくて、わざわざ隣市のガストまで出かけて一人でその作業を黙々とこなしていたわけだ。真昼間だというのに。

何事かやり終えた気持ちになって家に帰ると、当時付き合ってそんなに間の無かった彼女から「地震の揺れ怖かったね」やら「東北が大変なことになっている」やらメッセージが携帯に流れこんでいた。TVを付けるまでまったく気づかなかったわけで。世界と自分はこんなにもへだったっていたのかと大げさに思うと同時に、自分が知らないでさえいればどんな大ごとが起こっていようと起こっていないに等しいと感慨にふけってみたりもした。

ガストにいた時がまさに被災の瞬間だったらしいが地震があったことさえ全く気付かなかった。だってここ京都だしと思ったりもしたけれど、確かに京都も揺れた、らしい。そんな風に、僕の3.11体験は薄っぺらなものでしかなかった。唐突に極論を出してしまうけれど、実際に被災した人からすれば飛んでもない事件だったと思う。けれど、実際に被災しなかった人たちからすれば、3.11とはただの記号でしかないのだと思う。

例えば、関西の方でも「阪神淡路大震災」があったわけでその中を生き抜いた人たちからすれば、それはシンパシーを感じる話で共感できる部分も多くて、どうにかしてあげたいと思った人も多かっただろう。その胸に突き刺さる痛みは大きい。でも逆にそれ以外の人というとどうだろう。共感力が強くて、心優しい人は同じではないにしてもそれに近い感傷をもってこの件に向き合っているかもしれない。でも、自分の生活でいっぱいいっぱいな人や、あるいは世間に合わせて適切な態度で振る舞ってみるけれども、なんとも思っていない人だっているのではないか?

なんとも思っていないというと語弊があるか。なら、言い直すと「多少は思うところがある、確かにいたましい」が、二、三の悩み事が突然目の前に現れるとそれどころではなくなってしまうというそういう人の事だ。人間どうしても身近な人の命と、出会った事もない他人の命の重みを同じには考えられないものだ。

それはたぶん、冷酷だとか冷たいとかの話ではない。そんなありきたりな言葉では片付けられない。距離や関係性によって、それが、その痛みが、胸にいる大きさは違うのだ。削られて消えていくスピードも違うのだ。僕に出来る事は、教訓として胸に刻ませてもらう事くらいだろうか。それ以上には踏み込めないし、踏み込みたくない。それはとてもつらい事だから。